shisouhan’s blog

人間と技術との関係について、思っていることを書いています。

不気味の谷の住人

不気味の谷」という現象をご存知だろうか?人形やロボットが人間の姿に似ていくにつれて、だんだんと好感度が増していく。しかし、あまりに似すぎてくると、あるレベルで不気味さを感じる。昨月に九州大学が発表した研究では、未知への不安を抱きやすい人ほど、分類困難な対象に不気味さを感じやすいことが明らかになった。

 

不気味の谷を引き起こすのは”未知への不安”であることを解明 ―人とアンドロイドが無理なく共存する社会構築への期待―」(九州大学, 2017)

http://www.kyushu-u.ac.jp/ja/researches/view/187

 

この話題を知り合いに話したとき、非常におもしろい例を出してくれた。「外国人がカタコトで日本語を話すとカワイイけど、日本人が日本語を間違えるとなんだかムカつくよね」。なるほど。自分たちと離れているものが自分たちに似ようとすると、可愛げがある。一方で、自分たちと本来同じであるべきものが自分たちとちょっと異なっただけで、不快である。

 

これには、かなりエゴイスティックな人間らしさを感じる。何かが自分たちに似ようとすることが快であるならば、自分たちがそれよりも上位の存在であると感じているからかもしれない。一方で、自分たちとちょっと異なるだけで不快であるならば、自分たちが本来あるべき存在だと感じているからかもしれない。

現実はOFFできない・その2

電車の中でスマホを使っていると、びっくりするくらいに他人に気遣えていないことがある。ドアの前で邪魔になる、荷物が人に当たる、乗降車が遅い。そんなことするつもりはないのだけれど、気付くと人に迷惑をかけている。

スマホがONである同時に、周りの人との関係もONなのだ。スマホを使っている間に、周りがOFFになることなんてない。そこには、現在進行中の人との関係があり、現実の世界がある。

今日の帰り道も、僕を含めて下を向いている人ばかり。手元のブルーライトに照らされて、頭上のムーンライトにあやうく気付かないことがある。今日は新月の前日。ささやかな現実の光を、まだ気付ける人でいられるだろうか。

現実はOFFできない

VRとイヤホンは似ていると思う。どちらも、現実を遮断して非現実を楽しむものだ。いま目の前にあるものを見ることなく(聞くことなく)、作られた世界を楽しむことができる。そのうち、鼻の穴にはめて四六時中好きな香りだけ嗅げる、「ノーズキャップ」なるものが出るかもしれない。売れるかは分からない。

そのような技術が発展すれば、あらゆる疑似体験が全感覚へのリアルな刺激を伴って楽しめるようになるのかもしれない。例えば、疑似体験で山登りをするとする。木々の姿も、鳥のさえずりも、足裏に感じる傾斜の感覚も、すべてリアルに再現されるだろう。山に行くためのコストもなく、疲れたならば一時停止をしてソファで休憩すればいい。途中で山頂の高さをレバーで調整しながら。

先日、現実の山に登ってきた。わざわざ交通費を払って、それなりの時間をかけて。ぬかるみで足は汚れ、休憩しようにもベンチもそうない。気付かされたのは、現実はOFFできないことだった。それでも、そんな道を進ませてくれる丈夫な靴があり、この山にまで連れてきてくれた交通網がある。山頂にたどり着いて、クーラーボックスで冷やしておいたビールを飲む。ここ最近で一番楽しかった。

現実も楽しい。それを楽しませてくれるための技術もある。

陰のない暮らし・その3

陰のある暮らしを実現させている技術がある。Lucyは、屋内に自然光を取り込むロボット型ライトだ。太陽の動きに合わせて鏡の角度をずらしていくことで、屋外から部屋を十分に照らす量の自然光が取り込まれる。部屋は隈なく照らされる訳ではない。しかし、自然のリズムにしたがった優しい光が部屋に差し込むことになる。

(参考)
お日さまの光を浴びて、環境にも健康にもいいデスクワークを。自然光を室内に取りこむロボット型ライト「Lucy」(greenz.jp
http://greenz.jp/2016/10/08/lucy/ (動画0:50~に注目!)

これまで『陰のない暮らし』について書いたが、決して電灯という技術を否定している訳ではない。人間は電気によって、より長くより多く活動ができるようになった。ただ、人間にも限度がある。人間が人間らしいリズムを超えて活動するようなことがあれば、何かがどこかで悲鳴を上げ始めるだろう。

人間は本来ありたかったリズムに気付くことができたのなら、決してそのまま無理を続けなくなるのではないかと期待している。Lucyのような技術は、人間に本来備わっている『人間らしさのスイッチ』を押してくれるのではないかと思う。電気という技術が人間の可能性を広げるのと同じくらいに、これからの技術は人間らしさを守るべきだということを、僕たちは考えなければいけないと思っている。

陰のない暮らし・その2

電灯があることで、人間は午前2時まで仕事ができる。それ以上もできなくはないが(僕は2時までもできないが)、大抵の人はそのあたりのタイミングで寝るだろう。「日が暮れたら寝る」という慣習を外れて、人間の活動限界は技術によって生物のキャパシティのぎりぎりまで広げられている。
 
電灯があることで、人間は進化したのだろうか。たしかに人間は午前2時まで仕事ができるようになった。ただ、午前2時まで仕事ができるようになることは、午前2時まで仕事をしてもいいという考えを生んでしまっているかもしれない。
 
技術は人間の可能性を広げ、同時に人間の可能性を制限しているようだ。その技術がなければ、実はこうできていたのかもしれないのに…。そんな空想になってしまうかもしれないが、何かができるようになることは、何かができなくなることの裏返しであることを、自覚しなければいけないと思う。

陰のない暮らし

ある部屋に入ったときにふと気付いたことが、僕は日光が差し込んでいる部屋でも電灯を点けてしまうことだった。もちろん作業内容によっては部屋は十分に明るい方がいい。けれども、そういう判断をいちいちせずに、昼間から当たり前のように電灯を点けてしまっていることがある。

 

考えてみると、人のいる部屋は夜が一番明るいのかもしれない。そこは電灯によって隈なく照らされている。昼間に太陽光が差し込んでいるだけの部屋よりも、よっぽど明るい。いつしかそれが標準の感覚のようになってしまい、昼間から電灯を点けてしまっているのかもしれない。僕たちは『陰のない暮らし』をしているようだ。

 

東日本大震災の直後からしばらくは、「計画停電」というものがあって、高校の行き帰りの電車の中はいつも薄暗かった。けれども、それはただ「薄暗い」のではなくて、窓からの日の光と、車体でできた陰で、電車の中ははっきりと光と陰に分かれて、それでも人は電車を利用していたのを、今でも憶えている。

人間と技術の関係についての一思想

人生で一つ目に考えたい思想テーマである「人間と技術の関係」について、

 

ブログという形で書き残すことをしようと思いました。

 

ご意見・アドバイスをいただけますと幸いです。